昭和47年09月24日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
昨夜、ある方と話をさせて頂いた事ですけれども、合楽に御神縁を頂いて、大変おかげを頂いて、信心も本当に分かったかのように見えておる人達が、本当に思うてみると、不思議でたまらないという位に、スパッと信心を止める人達がある。本当に残念な事でもあるけれども、あれ程言うならば、親先生の為なら、命を掛け取りますと言う様な人達すらある。その人達がスカッと止めてね。と言うてここ二十何年間かの間で、そんな風にして、止めて行った人達の話を指折り数えてさせて頂いたら沢山おりますよね。
どうして止められるじゃろうか、あれ程有難い有難いと言うておって、あれ程信心とは有難い有難いと言いよってから、どうしてあげんスパッと止められるじゃろうかと言うて、話をした事ですけれども。それでそこに居り合わせた人達には言うんですよ。だから結局、当てにはならんという事です。どんなに親先生ああたの為に、命をかけますと言うとったっちゃ、そうのち言うとるだけで、本当にその人に命ども掛けさせよったら、本当にそれこそガッカリせんならん。と言うて話した事ですけれども。
そう言う様なものがです。矢張り桜の花の信心だからではなかろうかと思うですね。早う散る訳です。本当に人の真似の出来んような、華やかな言うならパーッとした、それこそ見事な信心をさせて頂いておりましてもです。散ってしもうたらお終いですから。まぁそれでもね、私はその人達の事を、お気付けどん頂きゃよかがとは、一遍でん思うた事はなか。やっぱり今でも十年も二十年も経っておる今日でもです。
やはりかりそめにも、私に一生懸命になられた方達、又はそれこそハッキリ口で、親先生の為なら命をかけますと言う程しまで言うておった。その事が決してその時、嘘ではなかった。だからお気付けどん頂きゃ、又出てくるがというような思いはさらさらした事がない。やはり今でも、祈らなければおられないという様な話をした事です。本当に事実、祈らせて頂いております。だからどうしてそういう事になるかというのは、結局は桜の花の信心だからという事なんです。
どうでも梅の花の信心。永う苦労しておるから、永う散らんだけではなくて、散ったところでです後が実になる。花は散っても梅の実。そしてそれが梅干ともなりいついつ迄も、置いても悪くならない様な力になる。桜の花の信心では、その時はそうかもしれないけれども。その時にはお役にも立ち、御用にも立たせて頂くかもしれんけれども。それが花だけで実らないという事は悲しい事ですよね。お互いの信心を検討してみてどうも、合楽の信心には、桜の花の信心の傾向が強いのです。
ですから銘々自覚させて頂いて、辛抱させて頂かなきゃいけません。昨日土肥の久富くにかさんが、お届けをしておられますのに、主人がこの頃二、三日愈々起き上がられんごとございます。本当に精も根も尽き果てたようにして休んでおります。それを見ると、金光様金光様と言うておる、その金光様が鈍ります。こちら迄が力が抜けていくように思います。思うてみるとこういう難儀な中に、本当にそういう難儀な中にでも、神様が、この様なおかげを下さっておる事実も、体験させて頂いとりますけれども。
やはり生身をもっておる人間の事ですから、それこそよろよろするごとあるという意味の事を、お届けされました。それでこれではならじと思うて、御神前に出らせてもろうて、一生懸命御祈念させて頂きましたら、御心眼に一杯卵のお知らせを頂いた。きつかろうけれどもさぁ卵ども吸って、元気を出せと神様が言うて御座る所じゃなと言うて、お話したことでした。そしたら今朝あそこへお参りになって居る様ですがね。本当に是は所謂梅の花の信心という事は、永う苦労しておるからと仰るように。
その永い苦労そのものがおかげなのです。それが力になるのです。それが御徳になるのです。そこでです、そんなら、苦労さえすればよいかと言うと、決してそうじゃないです。それを修行と思うと言うてもです。思うただけではいかん。その修行のし振り、苦労のし振りが問題なんです。私は昨夜今のお話をしましたような後でした。丁度遅うから足を揉みに来て下さいましたから、愛子と三人で色々話させて頂いた。私はあんまり相撲は好きじゃないですけれども。
繁雄さんが相撲が好きだから、相撲がダイジェストが、今頃ありゃしないですかと言うて、したら丁度お相撲があっておりました。それを見せて頂きながら思うた事であり、又、二人に話した事でございますけれども。ほら今の相撲誰じゃったか分からないけれどもね、素晴らしい、強い相撲でしたけれども、体勢が崩れた。崩れたら訳なく押し出されるですね。信心もあればい、体勢を崩したらもう駄目だ。言うならば自然との対決、それをここでは、成り行きを大事にすると言う。
自然に起きてくるその事と対決しておるいつも。言うならばそれが難儀であるならばです。その難儀というめぐりと対決しておる。難儀な時には、巡りが愈々勢いづいとる時なんだ。いや、めぐりのお取払いを下さろうとする、特別の神様の御神意御神愛でもあるのです。お互いが、渾身の力を出し合って、めぐりと対決しておる。自然と対決しておる。その自然との対決の場に於てです。へとへとと言う様な時にです。それこそ卵ども吸って元気を出せと、神様が応援をして下さる。
それに力を得て、また信心が出来るおかげ。元ここに総代さん迄して、大変おかげを受けた人がありました。まあ実意丁寧本当にあの人の信心な素晴らしいと、皆言う位に素晴らしかった。遠い所から、毎朝毎朝お参りをさせて頂きました。そして、今日参って来んなと思いよったら、その翌る日、私宛手紙が来た。そして長々お世話になりましたけれども、金光様の信心を、これで止めますと言うて来た。それがどういう事かと言うとです。金銭のお繰り合わせで、非常に金銭の難儀を致しておりました。
そしたら創価学会の人が来てからです。あんたが創価学会になるなら金を貸すち言わっしゃった。それでコロッと参っちゃった。この人なんかはですね、本当に私はこの人こそそうじゃろうと思う位にです、親先生の為なら命を捧げとりますと言うておりましたです。やはり総代でもする位ですからね。もう本当に、目も当てられませんですよね。前の前の日迄は、朝参りして来てから、一生懸命のお取次を頂いておるとですよ。
それに翌日参って来ないから、今日はどうしたのかなと、私も思いよったら、その翌日には手紙が来たち言う。もう驚くばかりです。結局、桜の花の信心だったなぁとこう思うです。そういう難儀な時に、金を貸すと言われたら、もうそれこそ何様でんよかち言うごとなってくる。そういう信心ではね、金光様の信心の、本当の真髄に触れていない証拠でもありますけれども。性格的にやはり桜の花の信心であったなと思います。今でも思います。今でも願います。
今度は五年という記念の式年祭だから、今度位はひとつ、皆さんにも案内を出してくれんの、そして、促させて頂かねばと言うて、言うておる事でございますけれども。そういう人がどの位、合楽にもあったか分かりません。そこん所をもう一つ、歯を食いしばってです。それこそ生卵でもすすってから、元気を出すと言う様なおかげをね、頂いておったら、有難い事になるだろうとこう思うんですけれどね。
昨日久し振りに参って来た人が、霊祭を終ってから、廊下でその方につかまえられた。まあつかまえられると、その方は時々しか参って来んけん、お願いが沢山ある訳です。それで、ずーっと箇条書のごとしてから、廊下のそこでしたから、あっちさん来んの、いいえ、ここでよございますから、お届けさせて貰いますと言うて、お届けするんですよ。結局、お取次を願われるですから、私その事を神様にお取次させて頂きよったら、丁度川舟ですね。あの鵜飼舟の舟の渕にね鵜が止まっておる。
そしてから羽をバタバタさせとるところを頂いた。そして口にはですね。丁度筆のようなものを咥えておる。これが魚じゃない訳です。筆のようなものをくわえておる。そして、その人はですね。合楽にはなしには出来ないと言う様な、例えば時々しか参って来んけれども、そういう存在の人なんです。この場合だけはこの人がおってくれるからと言う様に言うなら、そういう御用を承っておるです。ですから矢張りおかげ受けるんですね。だから、御用すりゃおかげを受けるという事はね、確かにそうです。
けれどもそれは決して本当のおかげにはならないです。例えばそんなら、神様とてもそうでしょうが。この事だけには彼が要る、彼女が必要だと神様は思し召すから、只おかげだけはやっとかんと、神様自身が困りなさる。と言うて神様が、それを利用しなさる訳はないけれども。そうして行くうちにです。本当な信心を分かってくれよ。本当に、無尽蔵に、限りなく頂けれる、おかげの信心を頂いてくれよという、切なる神様の願いがある事だけは間違いがないです。
只、筆なら筆んとこだけを使おうという事じゃない。ところが自分は、御用しとるからと言う。特に楽人さんなんかに、こういう類型が多いですね。神様の一番お喜び下さる。御祭典の時には、例えば、楽のおかげを頂かなければ。だから昔から、半先生と言われる位でしたね。信者と先生の中ぐらいに取り扱われる訳です。だから自分達は、こげな御用しとるけんでという気があるから、楽人さんで、本当に御徳を受けたという人が、非常に少ないです。本当です。
自分なこれが出来とるからとこう思うからです。それでお説教がありよったっちゃ、裏の方で笛を吹いとりゃ、それでよかか、琴をひきよれば、もうそれでよかかといったような、こげな、神様の御用をしとるけんと言う、あれがある訳でしょうね。だから、おかげは確かに受けておる、続いとるです。けれども私が受けておるようなおかげ、天地の親神様が下さろうとしておるおかげ。そういうおかげには触れられない。いくらバタバタしたっちゃ。だからね私はその事を申しましたけれども。
ざわざわしとる時ですけん、分かったか分からん事して帰りましたたけれどもです。後で思いました。ははぁ成程あの人達なんかは、合楽教会になしには出来ない人物だけれども。そして、自分がお願いする事だけは、それこそバタバタしてから、お願いする時は、バタバタするです。そして自分はこういう御用しとるけんでという気持ちがあるのじゃないでしょうか。だからそういう意味で、例えば、苦労が続いてもおかげにはならんです。と言うて、そんなら御用すりゃ助かると言うてです。
一生懸命お参りもする。一生懸命様々な人の真似の出来んごたる御用も出来る。と言うてもです。それは焦点を間違えておっての苦労であったら、おかげにはならんです。言うならば、本当の御用が出来るようになれば力を受けます。だからそうしてこれは金光教だけではないけれども、金光教でも最近それが非常に強調されるです。御用御用、御用すりゃ助かると言うて。御用すりゃおかげを頂くという事。只教会の使い走りをするとか、教会で、どんな御用をするとかと言うてもね。
それをおかげを頂かなければならんから、御用するのであったら、それは御用ではなくて私用です。おかげを頂かにゃならんから、御用しよるとじゃもん。御用すりゃおかげ頂く。もう第一教え方が間違っている訳です。さっきも申しますように、鵜飼のそれじゃないですけれども。本当にその鵜飼が限りなく、無尽蔵のおかげに繋がるという事はです。鵜そのものがです、本当に魚を取らせてもらうという事なんです。魚を咥えて上がってくるというのが鵜の御用なんです。
そして結局全部吐き出してしまう。是が鵜の働きでなからにゃいかんのです。だから間がその鵜は大事に大事に致します訳です。御用というのはこう言う事なんです。神様の手にもなり足にもならせて貰うからです。神様が又氏子の為に手にも足にもなって下さる様なおかげ。氏子が神様任せなら神様が氏子任せになって下さるという、神様が私任せになって下さるというおかげは、もうそれは私共が御用頂いた位の事じゃないのです。人間の一握りは是だけだけれど。
神様の一握りと言うたらどれだけあるか分からんと、久留米の初代が仰ったという事ですが、その通りなんです。だから御用をしとるけんでという事がです。焦点を間違えた御用であったり、おかげを頂かなければならんから、お供えをする。確かにお供えするとですね、おかげ頂く事だけは間違いないです絶対です。それはそういう理があるです。だから、そういうおかげを頂く為だけならば、お供えもよかろう、御用もよかろうけれども。それは何処までも、そのおかげを頂かんならんからというのじゃから、私用でしょうが。御用は、数字で、一二三四の五にしてもよか。
一つ足らんのじゃ。それにもう一つ、本当なものを加えさせて頂かなければ、本当の御用にならん。本当の御用と言うのは、神様の本当の意味に於ての、手にもなり、足にもなるという事。神様がこれ一つ持ってくれないかと。これはいよいよ神様は切実に頼みなさる訳です。そん時に、ハイと言うて、それを持って差し上げられる力を頂かなければ出来んでしょうが。それは私は持ちきりまっせんと言うたら、それ迄でしょうが。本当に私、今度善導寺の式年祭でございますから一年後に。
それで早速奥城の御用にかからんならん。沢山なお金がかかります。それでこれは私がどうでも、おかげ頂かせて貰おうと、会議のあるたんびにそれを思いよる。それが具体的に計算が出来たから、今度大祭が済んだなら、おかげ頂こうと、私は今朝お願いさせて頂いたらね。神様が急げ急げと仰ったですよ。だから私は今日は早速おかげ頂かせてもらおうと思いよるです。どうでしょう私がおかげ頂かせて下さいと言うたっちゃ、私がその様なお金を持たんなら、出来んでしょうもん。
神様が急げ急げと仰りゃハイそれこそ、今日ここが済んだら、直ぐにでも持って行かせて頂かれるだけの力を持っておるから、神様の御用に立つ訳でしょうが。そんなら私が持ちもせんとにですよ。どうぞお役に使うて下さい、お役に使うて下さいと言うてもです。持ちもせん者に、神様が頼みなさるはずがない。そして自分が見当違いの御用ばっかりすりゃ、御用すりゃ助かる、御用すりゃ助かる。お供えするけん助かるとじゃない。一生懸命お参りするけん、本当の助かりになるとじゃない。
一生懸命参りよるとも、おかげ頂かんならんけん参りよる。一生懸命御用しよるとも、おかば頂かんならんけん、御用しよると言うなら、成程おかげは受けましょうけれども、見当違いですから、例えば鵜がね一生懸命の働きをする事によってです、人間が助かる。だから、人間が、この鵜を殺しちゃならんという訳なんです。人間が鵜が頂くもんだけはそれこそ、いろいろ工夫研究をさせてもろうて、鵜に一番適当な食べ物を食べさせたりです。しかもそれを大事に大事に飼うでしょう。
私共と天地の親神様の関り合いちゃ、そういう関係にある。鵜は水に潜って魚を取るという事が、絶対の間違いのない御用なんです。だから私達がです。絶対の間違いのない御用と言うか、それを合楽では、もう本当にこれなら間違いがないというのは、私自身が体験して来ておる事だから、間違いないと公言出来るのです。今の金光教で御用すりゃ助かるてんなんてん、あげな事じゃいかんと言うのは、恐らく私一人でしょう。そうじゃないです。お供えとそれは付きもんじゃないです。
只目先のおかげは頂きますよ。絶対です、それは。けれども、神様が下さろうとしておるおかげは頂かれんです。それで、いつ迄もです。信心を何十年、いや何代続いておりましても、それが果して、梅の花の信心かと言うと、決してそうじゃないと言うこと。只続いておるだけでもいけないと言うこと。永う苦労しておると言うても、その苦労の内容がです。神様の心にピタッとくるもの、神様と交流するもの。そこで私共がです、本当に力を頂かせて頂く為にです。
さぁ本気で改まろうじゃないか本気で磨かせて頂こう。限りなく美ししゅうならせて頂こうという、そこからです本当の信心が分かってくる。本当の力が得られてくる例えば、そういう意味から言うてです。神様がさぁ急げ急げと仰ったっちゃちょいと待って下さい。今ちょっと間に合いませんけんと言うたら、それぎりでしょうもん。私の心としては大祭が済んだらとこう思うておった。記念祭ども済んだら早くその事にかからなきゃならんと、その事をお願いさせて貰いよったら、神様は急げ急げとこう仰る。
それこそ承知仕りましたという事なんです。そしたら今度は心が躍ってきたです。まぁ有難いこつじゃなぁ、神様が右とおっしゃりゃハイと言えれると言う事がね。もうこんな嬉しい事はないです。これが、二十年前の私だったら、とても神様が、そげな事おっしゃったっちゃ、逆たんぼうったっちゃ血も出らなかったでしょう。現在の私は神様がそう言うて下さりゃ、ハイと答えられるという事が有り難い。それは私が、限りないおかげの頂けれる道におるからです。
だから私の言う事を、皆さんが聞いて下さるなら、限りなくおかげの頂けれる道に出る事が出来るです。と私は、確信しております。今日は梅の花は苦労しておるから、永う散らんと言う所に焦点を置いて聞いて頂きました。只苦労しとる、永う続いとるだけじゃいかん。その永う苦労が続いておる時に、久富勇さんの例を取りましたけれども。もうヘトヘトという時があるけれどもです。
そういう時にそれこそ、信心の生卵ですよ。普通の生卵じゃ詰まらんと。信心の本当に元気の出るようなお話でも、頂かせて頂くことによって、一生懸命の御祈念をさせて頂くことによって、又、新たな力が湧いてくる。そういう辛抱でなからなければならない。しかもその辛抱していく内容がです、神様のお役に立たせてもらう、本当の意味に於て、神様の手になり、足にならせて頂けれる信心とは。
御用とはどういう様な事か、と。言う様なことを銘々分からせて頂いて、そこに焦点を置いての信心にならなければなりません。舟のへりに止まって、神様がしてくれと願いなさる御用はせずに、神様の心に通う程しの信心をせずに、只バタバタとした信心させてもろうてです。いくらそれは見たところでは、えらいしっかり信心しよるごたる。けれどもそれではその鵜は、もう役に立たないという事になる。
もうこの鵜は駄目ばいと。私が今日御心眼に頂いた、その鵜もえらい痩せ細ってる鵜でした。これは仕様なか潰さにゃちいうごつなってくる。もう餌をやるとが勿体なか。それでも神様は、それを一遍二遍で、それをしなさるとじゃなか。もう何遍も何遍も、繰り返し繰り返し、そういう事を促されながらです。さぁ本気で、水の中に潜って魚を取れよと、言うてござるけれども。
筆どんくわえてから、そしてバタバタだけは、おかげ頂かんならんけんしよる。私はこれを頂いてです。本当の所にね本当に、信心の目指しというものを作っての信心でなからねば。真の信心を目指してからの信心でなからなければです。それはおかげは受けますけれどもです。梅の花の徳とは言えない。梅の花の信心とは言えない。長々と続いておるという事が、梅の花の信心じゃない。花が咲いたら、それが実らせて貰う程しのです。信心をもって、梅の花の信心だと言えると思うですね。
どうぞ。